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『欠落した近未来』ケヴィン・ケリー

 書籍レビューのようなタイトルですが、今回はオンラインテキストのレビュー……というか、徒然かな。

『欠落した近未来』ケヴィン・ケリー

七左衛門のメモ帳より

 縦書き文庫経由でケヴィン・ケリーの文章を訳している有志がいることを知りました。ケヴィン・ケリーはクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(cc)の元に科学・技術・社会の未来について書いていたりする人らしく、和訳された出版物もあります。ccで書かれたテキストを翻訳しているのが上記の「七左衛門のメモ帳」様。

 翻訳の良否については私にはわかりません。私の英語力では辞書と首っ引きで苦労して大まかな内容を理解するのが精一杯で、繊細なニュアンスの違いなどさっぱりわからないからです。その程度の英語力には「七左衛門のメモ帳」のような翻訳記事はとてもありがたいものです。

 今回取り上げる「欠落した近未来」ではSFの役割について考えさせられました。
 このテキストの中でケヴィン・ケリーは

現状のあらゆる種類のSFでは、近未来については空白のままである。

 と述べます。そしてケヴィン・ケリーの文章ではお馴染みの「特異点」という言葉を引っ張り出してきます。これのニュアンスがよくわからない。人工知能が人類の持つ知能を凌駕する知の革新で、そこに到達すると人類の抱えている問題があっさりごっそり解決されるらしいのです。ところがこの特異点にはいつまで経っても到達できない、というのがケヴィン・ケリーの持論であるらしく否定的な文脈で用いられます。

 SFで描かれる近未来は特異点に到達する前の世界。
 スタートレック時代のような遙かな未来は特異点後の世界。

 つまり「欠落した近未来」というのは様々な問題が解決しないままの未来らしいのです。山積した問題が片づかないので、好ましい展望を持った近未来が描けない。イコール、未来の欠落、ということのようです。

 なんとなくすっきりしないのですが、これは未来(future)という語に「有望な」という肯定的なニュアンスが強く含まれているからかもしれません。単純な時制としての未来ではなく、希望的観測を含めた「将来」に近い語なのかも。

 同じような感覚は現在(present)にもあるようでケヴィン・ケリーの紹介したウィリアム・ギブソンの「いつも異質な現在」(ever-alien present)という言葉にも存在するようです。presentはイコール・現在だけではなくカタカナ語のプレゼント、つまり文字通り「エイリアン・プレゼント」にかけられている気もします。“現在ってエイリアンからの贈り物くらい不思議でいっぱいさ”と。
 気がするだけでまったく根拠がないのですが。

 特異点に追いつくことがないからと言って近未来が描けないとも限りません。科学に対する全幅の信頼、明るい未来への期待は――大人になるまでの私の中には確かにありました。
 今の子供たちは私が子供時代に持っていたような「極超音速旅客機でアメリカまで二時間半、街にはエアカーが飛び、環境問題なんて全部解決!」なんて明るく脳天気な未来は描けないでしょう。学校では窮屈なエコロジーを刷り込まれ、家庭の経済状況は成長と共に改善するとも限らず、世界を揺るがせるマネーゲームとテロが日々のニュースを飾ります。未来に夢を描けないのも無理はありません。

 けれど、暗く、慢性的な不況の下でこそ、地に足の付いた前向きなSFが力を持つのではないでしょうか。ビル・ゲイツになれるサクセスストーリーでなくても、世界を救う救世主になれなくても、小さな夢を叶える科学の力。そういう話が書ければいいな、とワナビの一人として思うのです。(挑戦中の小松左京賞ではもう少しスケールの大きな明るい夢が求められているようだけれど)
 明るい話を書こう、小さな範囲でもいいから特異点を描こう、と反駁の気持ちを奮い起こさせてくれたケヴィン・ケリーのテキストでした。

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