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映画『思い出のマーニー』

アニメ映画『思い出のマーニー』

 ジブリの新作アニメを見てきました。

 良かった。

 原作は1939年に書かれた“When Marnie Was There”というJoan G. Robinsonの児童文学です。2014年春あたりに「ジブリがマーニーをアニメ化するらしい」と聞いて楽しみにしていました。少女二人の繊細な会話が好ましい少女小説の古典です。

 というわけで封切り当日の初回上映で観てきました。元の話が出自に悩む少女の——しかも近代のイギリス社会でポピュラーであった『家なき子』や『オリバー・トゥイスト』的な昔ながらの児童文学のスタイルを踏襲する話で、血の繋がらない家族というドラマが中心に据えられます。
 鈴木プロデューサーはそんな懐かしい……というより古めかしいと感じてしまうドラマを持った『思い出のマーニー』を原作に選んだようです。完成した映画もその昔風なところはそのまま残していました。

あらすじ

 内向的で喘息持ちのアンナは札幌から根室の田舎町へ転地療養に。その土地でアンナは“湿しめ屋敷”と呼ばれる廃墟を訪れ金髪の少女・マーニーと出会います。運命的に惹かれ合うアンナとマーニー。けれどマーニーはとても実在の人間とは思えず……。

『思い出のマーニー』は百合なの?

 『思い出のマーニー』の予告編がTVやネットで流れ始めると「百合っぽい」という反応を見るようになりました。確かに本編を見ていてもマーニーとアンナが運命的に互いに引き寄せられますし、スキンシップもとても濃く、幾度もハグしたり「大好き」というセリフがあったりと百合百合しいです。映像は明らかに百合を意識していますが、これは仕掛けの一種で、マーニーの正体が明かされると同時にアンナが抱いた百合的な感情の正体もまた明らかになります。その正体というのは——封切りから日が浅いので伏せますが、少なくとも百合漫画誌で描かれるような同性愛としての恋愛感情ではなかったことが示され、物語の最初に遡りそのアンナの感情を観客に納得させる構造になっています。つまり、シーンとしては百合百合しくはあっても百合オタに向けられたエンターテイメントではない、です。
 もっとも原作では少し事情が異なります。小説ではアンナの感情にぐっと近づき寄り添い読んでいくことになり、映画同様結末としては同性愛心理の否定構造を持ってはいても移り変わる一時の気持ちは間違いなく百合と呼んで良い感情で、その一過性の儚さ自体が魅力であり百合なのです。
 映画は原作小説ほど観客の視点がアンナに密着しないことが差となっているのでしょう。
 というわけで『思い出のマーニー』に百合を期待して観に行くことはお勧めしかねます。児童文学や少女小説(『コバルト』のような現代のものではなくかつての『赤毛のアン』や『若草物語』のような古典)好きの人に強く勧めたいです。


『思い出のマーニー』の舞台

 『思い出のマーニー』は根室湾干潟と干潟に面した幽霊屋敷の魅力を見せる映画でもあります。潮の満ち引き。水辺の鳥たち。夕景・夜景とともに現れる金髪の美少女マーニー。古い洋館。昼の廃墟としての姿と命が吹き込まれる夜の姿。ジブリの美術力が生かされます。環境を見せるという意味では『アリエッティ』の小人の世界描写と比べるとやや淡く重くシンプルで、作中でヒサコが絵を描いている場所からの「湿しめ屋敷」の眺めに集約されていたように思います。
 日本ローカライズに際し根室が選ばれたのは、重い天気もある道東の夏が原作の地・イギリスと似ているからだろうか、などとバックパッカーとして一夏の半分を道東で過ごした学生時代を振り返りつつ思ったのでした。
 記憶の中にある夏の根室、釧路はどんよりとした日も多く、曇りがちの空から差し込む陽光が印象的な土地でした。映画の中では嵐のサイロや夕日に照らされる湿っ地屋敷が美しく描かれますが、荒ぶりはしても極端に破壊的ではなく、鮮やかではあっても道央の乾いて何もかもが輝きに満ちたような世界とはならない重苦しさが道東らしい……かな。釧路湿原では天使のはしごを見ることができたのですが、湿っ地屋敷に降りたら見映えしそう、と映画を見ながら思ったのでした。『紅の豚』でポルコがカーチスに撃墜される前の巡航時に雲間から陽の射すシーンのアレです。
 少し不満であったのが舞台を北海道にした甲斐が薄かったこと。「湿っ地屋敷」もサイロもアイヌ語に由来をとった呼び名をつけても良かったし、お祭りも東京のお祭りのようで味気なかった気がします。コロボックル伝説のある土地なので『アリエッティ』を思い出させるようなエピソードを織り込んでも良かったかもしれません。

感想

 孤児として育った少女の里親へのわだかまり。幼少時の失われた記憶。運命的で幻想的な少女との出会い。宣伝文句でもあった“ガール・ミーツ・ガール”を真正面から描いて百合オタフィルターを通さずとも「いいなぁ」という少女二人の関係。幽霊のように神出鬼没なマーニーとアンナ自身の秘密が次第に解かれていくミステリー展開。ミスリードも正解の伏線も序盤から仕込まれており、終盤できれいに繋がっていく快感。良作です。
 エンドロール後、照明が戻ったときの劇場の空気は「周りを窺う」感じでした。手に汗握る活劇でなく、また、孤児設定でありながら御涙頂戴のウェットな見せ方でもないクールな作りの映画であったために「感動要素はいっぱいあったけれど感動すべきだったのかな」という戸惑いが照れ屋さんの多い日本人に周囲を窺わせたのかな、と思います。率直に言えば感涙は流れなかったですが、かなり強い好感を持てました。Blu-rayが出たらあらためてゆっくりと見たいな。

原作小説

 原作を再読してみました。映画との比較感想記事を書きました。


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『青年のための読書クラブ3』タカハシマコ/桜庭一樹

青年のための読書クラブ3
漫画:タカハシマコ
原作:桜庭一樹
SoftbankCreative Flex Comix フレア
2014.7.12

 タカハシマコによるコミック版『青年のための読書クラブ』がこの第3巻で完結しました。

 原作は桜庭一樹の『青年のための読書クラブ』という同名の作品です。とあるカトリック系女子校の創立から合併・共学化による幕引きまでを連作短編の形で綴ったお話で、少女漫画の——あるいは吉屋信子の頃の少女小説の中に登場するような少女の園が描かれます。華やかであると同時に甘美な毒の仕込まれた世界。

 その『青年のための読書クラブ』が漫画となって完結しました。
 私はタカハシマコ版の1巻で『青年のための読書クラブ』に触れ、次いで桜庭一樹の原作を読み、両方を繰り返し読みながら続刊を待ちました。1巻は2009年1月刊。レーベルごと版元が変わり、web掲載を追いかけ、2019年の聖マリアナ学園終焉に現実の今が追いついてしまうかもしれないとはらはらしたこともありましたが無事に完結。単行本になった3巻を読み、1巻から読み返し、原作を読み返し、さらにもう一度タカハシマコ版を通して読んで「ああ、良かった」と息を吐きました。
 五年がかりの連載が完走したのも、漫画そのものも、漫画と原作の関係も、ぜんぶ含めての「ああ、良かった」です。

 漫画版は原作に忠実で、割愛されたエピソードもあるものの少なくとも「別物」と感じる人はいないはず。原作に忠実なだけではなく徹底的な消化・吸収&再構築がなされていると感じられ、桜庭一樹作品でありつつタカハシマコ作品になっているように思います。例えるなら、声の質も声量も歌唱法も違うけれどどこか通底するもののある歌い手二人の最良のユニゾンのよう。1巻の時点で感じた「幸せなコミカライズ」という印象はさらに濃くなりました。原作、漫画版共々、女子校テーマ、少女テーマのバイブルとして本棚の一番いい場所が定位置に。

 web連載の場になっていたCOMICポラリスでは8/14まで「特別編」として『青年のための読書クラブ』で使用されたカラーイラスト類が公開されてます。単行本1〜3巻の表紙が並んでいて初めて気づいたのですが、表紙カバーと扉が3巻分セットの一幅の絵を構成しているようです。この柄でリボンとかテープを想像したら素敵なんじゃないかな、とふと。

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